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ショパンと聞いてどんな曲を思い浮かべますか。
《子犬のワルツ》《雨だれ》《幻想即興曲》《別れの曲》《英雄ポロネーズ》……。クラシックファンでなくても馴染みのある曲ばかりです。曲名は分からなくても映画やドラマで、そしてコマーシャルで、だれしもそのメロディに聞き覚えがあるのではないでしょうか。そんなショパンの生涯や音楽の源を感じることができるゆかりのスポットを紹介します。
ショパンの生涯と音楽の源を感じる旅

ショパンは、20歳でワルシャワを離れて以来、再び愛する故郷の地を踏むことはありませんでしたが、彼の音楽の基盤はポーランドの時代に培われました。ショパンのアイデンティティとも言えるポロネーズとマズルカは、いずれもポーランドの民族舞曲であり、彼の音楽の原点でもあります。ショパンが前半生を過ごしたワルシャワや郊外には、彼の生家や心臓を安置した教会をはじめ、手書きの楽譜、手紙、愛用のピアノなどショパンに関する膨大な資料や遺品が展示されているショパン博物館、ショパン像のあるワジェンキ公園など、ショパンの足跡をたどることができる場所が数多くあります。
一色まこと原作の漫画『ピアノの森』やアニメのファンの筆者としては、ピアノの詩人の音楽の原点に触れるだけでなく、物語の中にも登場するショパンゆかりの地の聖地巡礼という楽しみも併せ持つ旅になりました。
ジェラゾヴァ・ヴォラのショパンの生家


1810年3月1日、ジェラゾヴァ・ヴォラでフレデリック・ショパンは生まれました。ジェラゾヴァ・ヴォラは首都ワルシャワから西に約60kmの場所に位置する小さな村です。当時のショパン一家は、父ミコワイが家庭教師として働いていたスカルベク伯爵家の屋敷の別館で暮らしており、そこでショパンが誕生しています。生後7カ月の時にワルシャワに引っ越してしまっていますが、夏休みやクリスマスなどにたびたび訪れていたショパンのお気に入りの場所でした。家族が実際に暮らした建物は残されていませんが、現在は博物館としてショパンが生まれた当時の家具や内装が復元されています。家族の肖像画やショパンの楽譜や家族に宛てた手紙など、ショパンゆかりの品々が展示されています。

生家の周囲は公園として整備されており、世界中から贈られたという様々な種類の木々や季節ごとに咲き誇る色とりどりの花々、そしてウトラタ川の流れが創り出す美しい空間が広がっています。ショパンが生きた19世紀のジェラゾヴァ・ヴォラに思いを馳せながら散策を楽しんでみてはいかがでしょうか。5月初旬~9月末の毎週日曜日、ショパン作品の演奏が行われます。
ショパンが洗礼を受けた聖ロフ教会

1810年4月23日、ショパンの生家のあるジェラゾヴァ・ヴォラの北約10kmのブロフフにある聖ロフ教会でショパンは洗礼を受けています。1806年にショパンの両親が、1832年には姉のルドヴィカもここで結婚式を挙げるなど、ショパン一家とは縁の深い教会です。祭壇の手前にはショパンが洗礼を受けたという洗礼盤が置かれています。洗礼の際に代父を務めたのはスカルベク家の長男フレデリックで、ショパンの名はこの人物から付けられました。外観は一般的な教会とは異なり、3つの大きな円筒形の塔と堅牢な防護壁をもつ城塞建築で、城のような重々しい印象です。教会内部は円形や正方形などの格子で装飾された樽型丸天井で、ショパンの生誕200周年を記念した修復工事が行われた際に修復されています。7、8月の日曜日の午後にはショパンの作品を楽しむコンサートが開かれます。


ショパンの誕生日の謎

ショパンがいつ生まれたかについては3つの説があります。
現在では誕生日は1810年3月1日というのが一般的ですが、聖ロフ教会の洗礼書には1810年2月22日と書かれており、ショパンの心臓のある聖十字架教会の碑文にもこの日付が刻まれています。そして3番目は1年前の1809年3月1日という説で、子供の頃の作品に記された日付や年齢など様々な資料に基づいて考証された誕生日です。いずれが正しいかはいまだに明らかになっていませんが、洗礼書に記載された1810年とショパン本人が3月1日と述べていることから、1810年3月1日という日付に落ち着いているようです。
ショパンの心臓が安置されている聖十字架教会
生まれから言えば、ワルシャワの人、心はポーランド人、そして才能は世界的なフレデリック・ショパンはこの世を去った
(ポーランドの亡命詩人ツィプリアン・カミル・ノルヴィト、1821-1883)

1849年10月17日、パリにて死去。
ショパンの遺体はパリ20区にあるペール・ラシェーズ墓地に埋葬されていますが、その心臓はワルシャワの聖十字架教会で眠っています。ショパンは生前に、死後はワルシャワのポヴォンスコフスキ墓地に埋葬されることを願っていましたが、社会情勢を考えれば非常に困難な状態でしたので「心臓だけでもワルシャワに」という遺言を残していました。姉ルドヴィカは弟を気遣ってワルシャワからパリを訪れ、ショパンの最後の3カ月間看病を続けていました。彼女は葬儀が終わり遺品整理を終えた翌1850年の1月、アルコール漬けにされたショパンの心臓をスカートの中に隠してポーランドに持ち帰ります。そしてショパンの「心臓(セルツェ:“心”の意味も持つ)」は、ワルシャワの聖十字架教会の左側の支柱の中に納められました。

その後、第二次世界大戦でこの教会も戦火に巻き込まれましたが、ショパンの心臓は事前に運び出されて難をまぬがれ、1945年のショパンの命日に元の柱に戻されています。ショパンの故郷ポーランドに対する強い愛情と、亡命生活の中での切なる望郷の思いを象徴的するこの教会は、ショパンの精神を感じることができる場所として、ショパンの音楽を愛する音楽愛好家や観光客にとって最も重要な巡礼地の一つとなっています。

ショパンの遺言には「心臓のポーランドへの返還」のほか、「未発表作品の廃棄(この遺言は実行されなかった)」、「葬儀の際にモーツァルトの《レクイエム》を演奏してほしい」というものもありました。5年に1度、ショパンの命日に合わせて開催される「ショパン国際ピアノ・コンクール」ですが、10月17日の命日はオフ日となり、聖十字架教会ではショパンを偲んで、《レクイエム》が演奏されます。
ワジェンキ公園のショパン像

ワルシャワのワジェンキ公園に立つフレデリック・ショパンのブロンズ像は、ポーランドの彫刻家ヴァツワフ・シマノフスキ(1859-1930)によって1907年にデザインされました。1910年のショパン生誕100周年に建立される予定でしたが、デザインをめぐる論争や第一次世界大戦の影響で延期され、建立されたのは戦後の1926年ことです。第二次世界大戦ではワルシャワを占領していたドイツ軍の標的(記念碑では最初に狙われました)になり、1940年5月31日に破壊されてしまいましたが、終戦後の1946年10月17日(ショパンの命日)に再建されています。(今回訪れたのもちょうどショパンの命日でした)
ショパン像横では毎年5月中旬~9月の日曜日に無料の野外コンサートが開催されます。

ワジェンキ公園は、ポーランド最後の王、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキによって造営されました。「ワジェンキ宮殿(水上宮殿)」や「オランジェリー(温室)」など歴史的な建造物も点在しています。
一色まこと原作の『ピアノの森』では、ショパン国際ピアノコンクールに挑むためにワルシャワを訪れた主人公の一ノ瀬海が、ワジェンキ公園のことを「ショパンの森」と呼び、彼が心を休めるお気に入りの場所になっていました。
花の陰に隠れた大砲

[Podlasie Philharmonic in Białystok、住所:Odeska 1, 15-406 Białystok]
ショパンの曲を「花の陰に隠れた大砲」と評したのは、作曲家ロベルト・シューマン(1810-1856)です。同時代を生きたシューマンは、ショパンの作品の繊細で美しい旋律の中に、強い感情やドラマ性が隠されているということを示唆しています。
第二次世界大戦中、ポーランドを占領したナチス・ドイツがショパンの音楽の演奏やレコードを聴くことを禁じました。ワジェンキ公園のショパン像が最初の標的になって破壊されたのも、ポロネーズやマズルカをはじめショパンの音楽を聴けば、その旋律から祖国ポーランドの姿が浮かび上がるから。ショパンの曲は単なる音楽ではなく、ポーランドの文化や愛国心の象徴、そしてポーランド人の魂そのものだからなのですね。
世界遺産、復元された街ワルシャワと王宮「カナレットの間」


ワルシャワの歴史地区は、1980年にユネスコの世界文化遺産に登録されました。戦後に復興された街なので不思議に思うかもしれませんが、「破壊からの復元および維持への人々の営み」が評価され、復元文化財として世界で初めての登録となっています。第二次世界大戦でナチス・ドイツに破壊され、建物のほとんどが壊滅的な状況となったワルシャワの街ですが、都市の再生を強く望んだワルシャワ市民が、「ひび割れひとつに至るまで」と言われるほど忠実に旧市街を復元させました。戦争によって一度は地上から消え去ってしまったという事実を知る私たちにとって、ショパンが暮らした当時と変わらない街並みを目の当たりにしたとき、その奇跡に強い感動をおぼえずにはいられません。

都市の復興にあたっては、戦火に焼かれる以前の街の様子を記録したモノクロ写真やスケッチ、絵画が参考資料として活用されました。中でも多大な貢献を果たしたのがスタニスワフ王の宮廷画家ベルナルド・ベロット(1720-1780)の景観画の数々です。ベロットは、ヴェネツィア景観画の巨匠カナレット(アントニオ・カナル)の甥で、ポーランドでは伯父の通称の「カナレット」の名で親しまれていました。精巧な建築物の描写が特徴的で、1767年から亡くなる1780年までの13年間に数多くの絵画を残しています。現在、ワルシャワ王宮の「カナレットの間」には20数点のワルシャワとその近郊を描いた景観画が展示されています。これらは王宮の大部分が破壊されたときに持ち出され、奇跡的に戦禍を逃れています。そして王宮が再建された際に、18世紀当時の配置で収められました。復元された旧市街を歩いた後で、この部屋を訪れると感慨もひとしおです。
ショパンの曲を奏でるベンチ

ワルシャワはショパンの街です。ショパンは生後7カ月の時にワルシャワに引っ越し、ポーランドを離れることになる20歳まで暮らしていたので、この街に多くの足跡を残しています。そのショパンのゆかりの場所に「ショパンベンチ」と呼ばれるベンチが置かれています。ボタンを押すと内蔵されたスピーカーからショパンの代表曲を聴くことができ、その場所にベンチが置かれた理由=ショパンとの関係も書かれています。このポーランドらしい演出のベンチは、2010年にショパンの生誕200年を記念して、ショパンのゆかりの場所15カ所に設置されたものです。ちなみに聖十字架教会前のベンチでは「ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調 作品35《葬送》 第3楽章 葬送行進曲」が、ワジェンキ公園に設置されたベンチでは「ポロネーズ 第3番変 イ長調 作品40の1《軍隊》」が流れます。
2025年はショパン国際ピアノコンクール開催年
神々でさえ、夏の長い宵を小舟の中に横たわって過ごしたいという気にさせるかもしれないほどの幸福な時間をピアノに歌わせている
(ドイツの哲学者、フリードリヒ・ニーチェ、1844-1900)

2025年は、5年に1度、10月17日のショパンの命日に合わせて開催される「ショパン国際ピアノコンクール」の開催年です。コンクールの創設は1927年で、2027年には100周年を迎えます。コンクールを主催するポーランド国立フリデリク・ショパン研究所(NIFC)の記念事業の一つとして、ジェラゾヴァ・ヴォラ、ショパンの生家の公園近くに大規模な国際音楽センターの設立プランが進められています。
前回の第18回大会は新型コロナウイルスのパンデミックの影響により1年遅れで2021年の開催になりましたが、反田恭平さん(2位)、小林愛実さん(4位)ら日本勢が活躍したのも記憶に新しいと思います。2025年は世界中からショパンの音楽を愛するコンテスタントが集まる記念すべきコンクールの年に、ショパンの音楽の原点であり、彼の足跡が数多く残されたポーランドを訪れてみてはいかがでしょうか。
取材協力:ポーランド政府観光局
公式ホームページ:https://www.poland.travel/ja
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Instagram:https://www.instagram.com/polandtravel_jp
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